毎日の仕事で忙しい、お父さん方!
子どものしつけはどうしていますか?
お母さんに任せっきりになっていないですか?
私は地元小学校のPTAに所属していますが、今年は「しつけ」をテーマに特集を組むということでした。
せっかくなので、「しつけ」について勉強しようと思い、「しつけ」をテーマにした本の中で、ある1冊に感銘を受けたので、ご紹介します。
「幸せになる勇気」という本ですが、ベストセラーになっている本なので、ご存じかもしれないですね。
先日、PTA広報部で「しつけ」についての共通認識として、この本の概要を説明しましたが、何人かでディスカッションすることで、更に理解が深まりますので、お試しください。
夫婦間でも、是非話しあってみるとよいでしょう。
1:幸せになる勇気 岸見一郎著
このシリーズは、前作「嫌われる勇気」の2作目という位置づけです。
今回「幸せになる勇気」は、教育というテーマについて深堀されています。
「しつけ」をテーマに文章を書く際の、さまざまな示唆を得ることができました。
特に、家庭での「しつけ」のあり方、親としての心構え、子どもに対する意識について考えさせられましたので、まとめたいと思います。
2:教育とは
教育の行動面の目標として
1.自立すること
2.社会と調和して暮らせること心理面の目標として
1.わたしには能力がある、という意識
2.人々はわたしの仲間である、という意識
教育の目標を行動面と心理面で分け、それぞれ2つの目標を示しています。
そして、行動面の目標である「自立」を援助するのに必要な目標として「尊敬」の念を持つこと。
「尊敬」とは、最初に「教える側」に立っている人間が、「教えられる側」に立つ人間のことを敬うこと。言うなれば、「ありのままにその人を見る(認める)」ことが前提であると説いています。
教えられる側ではなく、「教える側」が、「教えられる側」を尊敬する。ということに、新たな気づきがありました。
3:「叱ってはいけない、ほめてもいけない」のはなぜか?
この問いに答えれる方はいらっしゃいますか?
10人のグループでディスカッション中にも、「叱ってはいけない、ほめてもいけない」のはなぜか?の問いに関して、さまざまな意見が出てきました。
- 叱る行為は、相手を抑えつける行為だから、親も叱ったあと後悔することが多い
- ほめることは、相手の長所を伸ばす行為だから、よいのではないか。
「ほめる」という行為については、悪いことではない。むしろ、ほめたほうがいいのでは?という雰囲気が漂いました。
本を読む前であれば、私もそう思っていましたし・・・。さて、今後のディスカッションの内容は、どうなることでしょう。
では、まず、「叱ってはいけない」から見てみましょう。
3-1:「叱ってはいけない」のはなぜか?
まず、子どもが何かよくないことをした。危険なこと、他社に危害を加えるようなこと、あるいは犯罪に近いようなことをしてしまった。いったいなぜ、そんなことをしたのか?
このとき、ひとつ考えられるのは、「それがよくないことだと知らなかった」という可能性です。
「ただ、「知らない」だけ。」これは、十分、ありえますね。納得できる回答だと思います。大人にとっても常識的に知らないことも多々ありますので、子どもならなおさらでしょう。そして、
大人たちのやるべきことはひとつです。知らないのであれば、教える。そして教えるにあたって、叱責の言葉はいらない。この原則を忘れないでください。
いかがでしょうか。思い当たることもあるかもしれません。また、大人の論理で考えずに、子どもの立場にたって寄り添うということも必要なのかなと思います。
「叱ってはいけない」については、理解できましたでしょうか。
3-2:「ほめてはいけない」のはなぜか?
「ほめてはいけない」については、ディスカッション中も議論の分かれるところでした。アドラー心理学では、問題行動に走る原因となりえると考えています。
この場合の問題行動とは、問題行動の第一段階「称賛の要求」のことになります。
親や教師に向けて、またその他の人々に向けて、「いい子」を演じる。組織で働く人間であれば、上司や先輩に向けて、やる気や従順さをアピールする。それによってほめられようとする。入口は、すべてここです。
しかし、ここには大きな落とし穴があります。彼らの目的は、あくまでも「ほめてもらうこと」であり、さらに言えば、「共同体のなかで特権的な地位を得ること」なのです。
ほめられる行為以外をしなくなるということにもつながる、「ほめる」という行為。
親としては、「ほめる」という行為をするまでもなく、日頃の些細な行動に目を向ける。そして、その人の感心ごとに注目し共感を寄せていく意識が必要です。
そうすれば自ずと「ほめる」必要性がなくなるということでしょう。
4:叱るという手段が教育上なんら有効でない理由とは?
この問いに関する回答は、逆説的に解説されています。
もしも「叱る」という手段が教育上有効であるのなら、せいぜいはじめの何回か叱っておけば、問題行動はなくなるはずです。それがどうして「いつも」叱ることになってしまうのか。どうして「いつも」怖い顔して、「いつも」大きな声を出さないといけないのか。
これは「叱る」という手段が教育上なんら有効でないことの、動かぬ証なのです。
確かに、あぁなるほどと、納得できる回答だと思います。
そして、ディスカッションでは、次の話題に移ります。
5:叱る、ほめる側の本当の理由とは?
「なぜ、叱るのか。なぜ、ほめるのか。」我々が日常繰り返すこの行為について、親(教育者)側の理由をディスカッションしました。
- 叱るのは(忙しいなどの理由で)感情を抑えられず解消するために行うこともある
- ほめるのは、子どもが喜ぶ姿を見たいから。更にがんばってほしいから。
などの意見がでてきました。しかし、この本ではズバリと書かれています。
自立させることが怖いのです。
親(教育者)は、一見、自立させるために、叱ったりほめたりしていそうです。でも、実は、それが自立を妨げていると。
もしも生徒たちが自立してしまったら、あなたと対等な立場に立ってしまったら、あなたの権威は崩れ去ってしまう。あなたは、いま、生徒たちと「縦の関係」を築いており、その関係を崩されることが怖いのです。これは教育者だけでなく、多くの親が潜在的に抱える恐怖です。
さらにもうひとつ。子どもたちが失敗したとき、特に他者に迷惑をかけたとき、当然あなたもその責任を問われます。教育者としての責任、監督者としての責任、親であれば親としての責任。
どうすれば責任を回避することができるか?答えは簡単です。子どもを支配することです。子どもたちに冒険を許さず、無難で、けがをしないような道ばかりを歩かせる。可能な限りコントロール下に置く。子どもたちを心配して、そうするのではありません。すべては自らの保身のためです。
これは、非常に考えさせられる内容でした。自立させるために叱ったりほめたりしていると考えている方が多かったように思います。しかし、本来は真逆だという真実。
ディスカッション中にも、この回答を一気に読んだときは、シーンとなりました。
よくよく考えてみると思い当たることもあるでしょう。そして、私も含めて、いままで、そのようなことを考えたこともないでしょう。このような考え方があるということを知ることの大切さを知りました。
そして、今回のディスカッションでの結論に導きます。
6:子どもから「友達のところに遊びに行っていい?」と聞かれたら何と答えますか?
ここでもディスカッションし、さまざまな意見をいただきました。大きくわけて、以下の2つ。「許可」と「条件付け」の意見に収束されました。ここでは、遊びに行くのはダメ!という「禁止」の意見はありませんでした。
- いいよ!
- 宿題が終わったら行っていいよ
通常は、許可、条件付け、禁止に収束され、これらは、いずれも、子どもを依存と無責任の地位に置く行為としています。
「それは自分で決めていいんだよ」と教えること。自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものだと教えること。そして決めるにあたっての必要な材料、たとえば知識や経験があれば、それを提供してくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。
子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助するのです。そして、いつでも援助できる用意があることを伝え、近すぎない、援助ができる距離で、見守るのです。
この回答をディスカッション中に、子どもに自分でルールを決めてもらってから、自分で決めさせるのはどうか?という意見がでてきました。
ルールを決めるにあたっての、必要な材料を一緒に考え、自分で判断してもらう。ことは有効ではないでしょうか。
日々の生活ですぐに活かせる活かせないはあるでしょう。それでいいと思います。頭の片隅に入れておくだけでも、子どもへの接し方が変わる気がします。
7:「幸せになる勇気」まとめ
今回の小学校のPTA広報誌のテーマが「しつけ」ということもあり、再度、読み返したのが正解でした。一度読んだはずでしたが、目的があるときの読書の濃度の違いに改めて気づきました。
この内容は、広報部会内でも共通認識として持っておくことで、より深い洞察の元に記事をかけるのではないかということで、先日、ディスカッション形式で講義させていただきました。
教育者は、自立を援助するのに必要な目標として「尊敬」の念を持つことが必要だと説いています。教える側に立っている人間が、教えられる側に立つ人間のことを敬う。それが前提で講義することの重要性も感じることができました。
いろんな意味で面白い本なので、機会があれば読んでみてください!